多賀神社 御由緒
新撰陸奥国誌」などによると、天平三年(七三一年)に僧行基が開基した說と、大同二年(八〇七年)に坂上田村麻呂が創建した説との二説の伝承がある。
行基が開基したという説によれば、もともとは行基が仏教を布教する際に西目屋村高森の岩窟に千手観音像を彫って安置したのが始まりという。千手観音が安置された所は、その後、老松が白い花を咲かせたところから「花咲観音」と呼ばれ人々の信仰を集めていた。歴代津軽藩主の厚い庇護も受け、長い間この地に鎮座していたが、四代津軽信政が万治三年(一六六〇年)に現在の地(桜庭)に再興したのに伴い、ご本尊の千手観音もこの地に遷座することになったという。また、信政は寛文三年(一六六三年 ) に京都の清水寺の舞台を模して本殿を建立したといわれている。本殿の裏側には大きな岩があり、その間から清水がほとばしっていることから「清水の観音様」と呼ばれるようになったと伝えられている。尚、延宝八年(一六八〇年)の「最勝院支配堂社帳」には「桜庭清水観音堂」との記載がある。 時は流れ、明治四年(一八七一年)政府の神仏分離令によって、清水観音堂は現在の社名である「多賀神社(祭神は伊弉諾尊)」となった。それに伴い翌明治五年には本尊である千手観音像は弘前市禅林街にある「桜庭山陽光院」に移され、年に一回の御開帳が行われている。
現在も多賀神社境内には古くからある狛犬や石灯籠、絵馬などが多く残されており、石造狛犬一対においては寛文四年(一六六四年)の銘があり、市指定有形文化財である。また、子年生まれの一代様であると同時に津軽三十三霊場の二番札所でもあり、毎年の例大祭八月十七日には近郷近在はもとより広く県内一円から多くの参拝客が訪れる。
御祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
「古事記」や「日本書紀」に出てくる神々や、日本の国土を作った神。
いざなみのみこと、と夫婦であることから、
夫婦円満、子宝、安産、縁結びをはじめ、病気平癒、健康祈願、五穀豊穣、厄除けなど、
多くのご利益があります。
多賀神社は子歳の一代様であることにちなんで、歯の強いネズミのようにお子様の「歯がため」や「生涯、食に困らないように」という祈願に訪れる方もおられます。
津軽一代様とは
津軽地方では江戸の藩政時代から、自分が生まれた年の干支を守り神として信仰する風習があり、新年や旧正、人生の節目には、自分の守り本尊にお参りに行きます。
多賀神社は子(ねずみ)歳の守護本尊として、多くの人々の信仰を集めています。
毎月17日の氏子定例会 毎年8月17日の例大祭
多賀神社氏子総代会は、7名で構成されており、毎月17日に境内の清掃や会議などを開いております。この日は直接お守りや御朱印を販売しておりますので、午前中に社務所にお声がけください。社務所が閉まっている時は、神社お隣の斎藤様宅にて、お守りや御朱印など販売しております。
例大祭は毎年8月17日です。例大祭の詳細は、およそ1か月前程から告知いたしております。
多賀神社ギャラリー
多賀神社の御朱印は300円で、御朱印を購入すると納経札がセットでついてきます。
本殿と神楽殿を結ぶ通りに、新たに橋がかかりました。有難いことにいしちゃんは橋の名付け権をいただいたので、神社にはお願いごとをするためだけでなく、日頃の感謝やご挨拶だけに訪れる方も大勢おられます。そんな方々にも「渡るだけで思いがけない幸福が訪れるように」という願いを込め、僥倖橋(ぎょうこうばし)と名付けました。
R3 7月。楽しいね!東目屋実行委員会をはじめとする東目屋地区有志による、参道整備事業が行われました。
多賀神社の参道は山道で階段も多く、足腰の弱い方には登るのが大変な面があるのですが、少しでも楽に本殿まで行けるようにと、階段を迂回する参道が出来上がりました。地区の皆に愛されている神社です。また、参道だけでなく、大祭の限定アイテムとして「ネズミさん運試し」も奉納してくれました!
R4年度 氏子総代一覧
総代長 福澤 秋一 / 西沢 孝弘 / 西澤 勝雄 / 吉谷 誠 / 米沢 秀裕 / 西谷 春二 / 石戸谷 寛子
お問い合わせは
多賀神社へのお問い合わせもいしちゃんまでどうぞ♪